花巻 温泉 観光 ガイド | 花巻市・花巻温泉の情報満載です。





1.花巻市の概要

花巻市は人口10万人の文化観光都市であり、岩手県の中央部に位置しています。
東北一の大河北上川に広がる肥沃な平野に、米、野菜、果樹などの農業が盛んであり、
地方の小都市には珍しく「空港」、「新幹線」、「高速自動車道」とこの3大高速交通網を兼ね備え、これを活かして商業、工業も発達しています。


2.花巻温泉郷の概要

花巻温泉郷とは、豊沢川沿いに松倉温泉から新鉛温泉までの8つの一軒宿の温泉が点在する「花巻南温泉郷」と、山を挟んで「花巻温泉」と台温泉、宮澤賢治ゆかりの岩手県花巻市にある温泉郷です。
 
また花巻温泉郷は、古くからの湯治場としてだけでなく、東北でも有数の温泉地としても知られており非常に人気の温泉地です。また、花巻市の概要でも記載したとおり、3大高速交通網による交通アクセスの便利さも魅力の一つとなっています。

1972年(昭和47年)に全廃となりましたが、東北本線花巻駅~花巻温泉、東北本線花巻駅~新鉛温泉を結んだ花巻電鉄が出ていた事があり、宮沢賢治や高村光太郎も利用した事があると知られています。現在もその電車は、花巻市内の「市民の家」にて面影を見ることが出来ます。

 

 

3.花巻のあゆみ

1:地名の起源

花巻の地名の起源についての定説はない。  
伝えられて居る起源は次のとおり、
 

一、昔、瑞興寺の近くを北上川が渦を巻いて流れていた。その渦巻きに、春の季節には多くの桜の花びらが舞い散って美しい花の渦巻きになった。この花のうずまくところということから花巻と呼ぶようになったという説。

二、アイヌ語で、このあたりをパナマッケ(川の下のひらけた場所)と呼んだことから出たという説。

三、かつて、この辺にあった花の牧という牧場からとったという説。

四、平安時代に、この付近に置かれたと考えられる磐基(ハンキ)駅からなまってハナマキとなり、花巻の漢字を当てたという説。

 

2:花巻の歴史

現在、市内の各地から多くの土器・石器が出土している。いわゆる縄文時代、数千年前から既にこの地方に人間が住んでいたことが分かる。

宮野目葛、北上川河畔の方八丁、矢沢の北上川流域平野に突出した丘陵の突端の胡四王山は、ともに学術的調査によって住居跡などが確認され、九世紀のころの開拓遺跡であることが分かった。方八丁は、胆沢城と志波・徳丹城を結ぶ補助的屯田集落、胡四王山は、蝦夷の叛乱に備えるための防衛陣地、防衛施設のある集落地の一形態であったと考えられている。  十世紀にはいると安倍氏がこの地方において、鳥谷ヶ崎を根拠地として勢力をふるっていたといわれている。  

鎌倉時代になると、稗貫氏が花巻地方一円を支配していた。稗貫氏は最初、湯本の小瀬川に居り、次いで宮野目本舘、そして、永禄年間(16世紀半)に、かつての安倍氏居城鳥谷ヶ崎に移った。本舘は、記録によると西表の城で南北三重の堀があったという。  

湯口の円万寺に正慶元年(1332年)の碑がある。この碑の年号が北朝のものであることは、当時この地方に居った稗貫氏の一族の根子氏の動向を示す資料として貴重なものである。稗貫氏は、時代の流れを認識できず、豊臣秀吉によって滅ぼされた。  

天正十九年(1591年)秀吉は、南部信直に稗貫・和賀・志和の三郡を与えた。このことによって、南部氏は、現在の青森県の東半分と岩手県の北半分を領することになり、北上市付近で伊達氏と境を接することになった。このため、花巻は重要な場所であるので優秀な人物をおけとの進言によって、北秀愛が和賀・稗貫八千石を与えられ、花巻郡代として着任した。この年、鳥谷ヶ崎城を花巻城と改めた。  

秀愛は、盛岡に通ずる街道筋として四日町に開町の重点をおき、また、太田の清水寺を中心として存在していた市場を花巻に引き寄せるなど町づくり努力した。秀愛の後を継いで、二代目の郡代となった北松斎は、南方との物資交送のための川口の利用のための里川口、四日町に続く一日市の町づくりを考え、ここに四日町、一日市、里川口のいわゆる花巻三町を中心として以後の花巻発展の基礎をつくったのである。  

北松斎は、南部藩の重臣であり、軍事のみでなく、民政にも優れた手腕があった。花巻まつりは、県下のみならず全国的にも有名になった。観音まつりに起源を持つといわれるこの祭りは、花巻開町の恩人である北松斎の死後、その追慕の意味も加わり、その命日に行うようになったことから松斎祭としての色彩が強くなった。江戸時代の末期には、稗貫・和賀二群の惣祭事として三日間は城中でも仕事を休んでにぎやかに行った。現在は、城内鎮護の神社であった鳥谷ヶ崎神社の祭典と一緒になり、市民総参加の名のもとに年々盛大に実施されている。

 

3:商都花巻の形成

江戸時代初期は、四日町、一日町、川口町(里川口)のいわゆる花巻三町が中心となり、花巻発展の基礎をつくったのだが、次第に、川口町の中に八日町(現在の上町、大町)、鍛治町などの町がつくられるようになった。なお、酒屋、質屋を中心とした上町が商業地の様相をおびてきたのは寛文年間(17世紀半)とみられるが、八日町の名が示すとおり、八の日に市が行われていたことや、花巻城の大手門に近いこと、近くに緒士町があること、江戸への参勤のための主要道路(豊沢町筋)との関係などから、商業町として急速に開けるところとなった。また、当時川口町の中でも、八日町(上町)には、造り酒屋が多く集中していたとされ、特に市日交流が盛況であったことが伝えられている。  

さらに、時代が進み徳川の中期元禄の頃には、この地で、清水甚兵衛、佐藤又兵衛の両豪農がいわゆる「旭日の里の長者」としてお互いに勢力争いをして有名であった。現在の上町エセナからマルカン交差点南側が佐藤又兵衛の屋敷であり、その北側が清水甚兵衛の広大な屋敷であった。  既に、旭日の里も半農半商の生活様式に移り、名も「横町」と改められていた。のち、近江屋の手広い商業の営みによって、この地域への商業が移動する兆候をあらわし、いよいよ純然たる商業街が形成されるところなった。このような繁栄が基盤となり、花巻は、「商業のまち」「あきんどのまち」として生い立っており、そして、近江商人の流れによる商業活動が従来の商業の機能を一段と昇華させ、県下にその名を馳せたのである。

 

4:明治~現代の花巻

明治22年(1889年)町村制実施によってこの地方は、笹間村、矢沢村、宮野目村、湯本村、湯口村、大田村、花巻町、花巻川口町、根子村の二町七ヶ村となった。  

大正12年(1923年)根子村と花巻川口町が合併、さらに、昭和4年(1929年)花巻町と花巻川口町合併し、町名を花巻町とした。  
昭和29年(1954年)4月1日花巻町、湯口村、湯本村、矢沢村、宮野目村及び大田村の一町五ヶ村を廃して、市制に移行した。  
また、この年の10月成田の一部が編入され、翌昭和30年(1955年)には笹間村が合併した。  

平成18年(2006年)1月1日、所謂「平成の大合併」で、花巻市、稗貫郡石鳥谷町、大迫町、和賀郡東和町が合併し、新たな花巻市となった。